テキトウ日記

ひとりごと。なんとなく感じたことをテキトウに書き綴る。

43歳で会社辞めた。

40過ぎてる。
一応小さいが会社役員だった。
2年ほど悩んだ末、退任することにした。

きっかけは2年前の同窓会。
亡くなっている友人が何人かいた。
初めて付き合った子も出産後亡くなっていた。
ずっと今のまま続くと思っていた人生を考え直した。
そして酒の飲み過ぎがたたり、急性膵炎で生死を彷徨ったことも理由のひとつだ

人間いつ死ぬか、明日の事すらわからない。
老後の資金やつまらない世間体の為、今を犠牲にし、やりたい事を我慢することに疑問を抱いた。

役員を辞めてまでしたいこと。
あるあるだけど"世界中を旅する"こと。

くだらない理由だし非生産的な事かもしれない。
が、人が死ぬ時に後悔することの一つに"もっと旅をすればよかった"
が挙げられるそうだ。
僕はそうなりたくなかった。
"それが叶えられる時、もうそれは必要ではなかった"と言う事は避けたかった。
小さい頃、大きくなったらゲームをたくさんしようとか、
お金持ちになったら死ぬほど焼肉を食べようとか思っていた。
実際にその時が来たらゲームもしたくないし、焼肉も食べたくなくなっていた。

そうやって老後までいろんな事を先延ばしにして、いざ引退した時には家でボーッとしてるだけの無気力な老人にはなりたくなかった。

幸か不幸か子供はいないし、理解のある妻がいて、世界旅行をするぐらいの貯蓄はある。
帰ってきて無職になるがそんな事ばかり考えていては何も出来ない。

だから辞めた。

夜中に不安になることもあるし、周りから心無いことを言われる事もある。

そんな時は明日死ぬ事だってあるんだ、と言い聞かせて不安を拭う。

そうやって僕は今まで築いてきたモノを棄て、新しい生活に飛び込んだ。

機会あるごとにそれから経験した事、これから起こる事を忘備録としてブログに綴っていきたい。

ああ、欲求から中々抜け出せない!

どんなに地位を得ても多くの人間は自己認証欲求からなかなか逃れらない。


仕事で同僚と話しをしていると、
どれだけ自分が部下に頼りにされているかを、どれだけ自分が彼らにとって特別かを語ってくる輩がいる。
なるほど、それは確かに間違いないと思われるし、否定はしまい。
ただ、そんな事を言う必要がないほどの地位にあっても、他人から認められたいと言う欲求が強い事にただ驚くばかりなのである。

よくある例えで、
他の部署の部下が直属の上司を飛び越え、
自分に相談してきたという話。
内容は進退の相談であったり、上司への不満だったり色々だ。
客観的に聴くと、いくつかの間違いを犯している。

まず、相談する側が直属の上司ではなく、違う部署の上司、または飛び越しての上司に話しを持って行っていること。
それにより直属の上司がこの事を聞いた場合、または諭された場合、本人にマイナスの感情を持つのは必至だ。

次に、そうならない為に、相談を受けた側がしっかり部下に、直属の上司に伝ねばならない事を教えてやる。
もちろん、伝えられないから相談してきている。
だからこそ色んな算段をしてやる。
三者として立ち会っても良い。
直属の上司に対して暗に仄めかしても良いだろう。

今回のポイントは、
本来、相談された側が最良の方法を選択するよりも、自分の承認欲求を満たすために直属の上司に、
[あいつが俺にこんな相談をして来たんだけど]と、自分の優位性を示す為に告白してしまうことだ。
そして、自分の方が部下に信頼のたる人間だと思い込み、酔いしれ、気持ちよくなってしまうことだ。

そのような人間がいかに多いことか。
また偉くなっても、そのような欲求がどれだけ人に強くこびりついてるかが分かる。

かく言う私もその最たるものの一人。
他人の落ち度はよく分かるが、自分の欠点を治すのはなんと難しいことだ。

くう、ねる、さけ

お題「ひとりの時間の過ごし方」
ひとりの時間かあ。
建前で言うと、家なら読書、書道。
外ならランニングだな。

でもほんとは酒だね。
深夜、家族が寝静まったころ。
ひとりリビングに忍び込む。
灯は最小限に抑えた薄暗い部屋。
冷蔵庫からよく冷えた獺祭を一合徳利にうつす。
小さな猪口に注ぐ。
飲み口は薄い方が良い。
ぼってりしたものは熱燗には良いが冷酒には少し野暮ったい。
表面張力まで注がれた獺祭を猪口を持たずに口を近づけて、クッとすするのが粋だ。

アルコール性急性膵炎を患い、3年間禁酒していたワタシにはこの一口一口が命を削って飲んでいるのと同じだ。
この瞬間に死を感じ、死を思うのだ。
なんとも大げさな話だが、
酒を飲むこととは自分に酔い痴れる事と見つけたり。
ツマミはせいぜいが板わさか鳥わさ。
又は味のり。
腹は満たしてはならない。


ここでテレビなんぞをつけては無粋である。
あくまで己とだけ向き合う。
音楽などはもってのほか。

そして酔ってきたならば、頭がキリッとした時は写経や写生なぞを始め、そうでなければ横になって寝る。

気分が悪くなるほど飲んではならない。
そこに修練が必要になる。

1,2時間うたた寝をしたら気持ち良く起きる。

それが最近の一人の過ごし方である。

Wordpressと無料はてなの使い分け

適当につれづれと、他人の目やアクセス数、グーグルさんの評価を気にせず、文章の良しあしも何もなく、思うまま文章を書きたいときがある。

最初は運営しているWordpressのブログで雑記ブログも書こうとしたのだがやはり本筋の流れと大きく違うし、なにより他人の目が気になってどうしても適当に書けない。
反ってそれがストレスとなり結果、削除する事になる。

皆どうしているのか?
読者を意識する書き物を公式だとすると、私的にこそこそと書き物をしたいのはオイラだけじゃないと思うんだよね。
公式なものはSEOや文字数やいろんな制約があって、どうしても自分が出しにくい。
それを甘えだと言われると確かにそうだし、そんなものブログで書いたらあかんよと言われると確かにそうなんだけど。

たとえばそういった私的な書き物は紙ベースであったりとか、今回のわたしのように人知れず無料ブログを立ち上げたりとか。

非常に気になるところである。

公式なものにプライベートな心情を吐露した文章を載せた。
なんと、かみさんがこっそり読者になっていたことがわかり、これは止めようとおもったのが今回のきっかけ。
なので、紙ベースだといつ何時、かみさんに見られるかを心配しているとこれもまたストレス。

やはりしばらくこのブログで色んな事を書いていこう。

見る人の事を考えてないのでとても見にくいし誤字脱字もあるかもしれない。

 

もし奇跡的にこれらのブログを読んだ人はご容赦願いたい。

 

 

本の思い出

祖母は今年で87歳になる。
最後の一人となってしまった祖母は認知症で施設に入居している。

僕は本が大好きだ。
読むことはもちろんだが、集めることも、買うことも、モノとしても、そして本屋も好きである。

街で家内の買い物を本屋で待っていた。
女の洋服選びに付き合うくらいなら、本屋でゆっくり最新刊でも見ていた方が良い。

遅いなぁと思い、本をパラパラと見ていた時にフッと幼い頃、よく同じように、
買い物をしている祖母を待っていたのを思い出した。

僕の家は別に貧しかった訳ではないが、教訓方針からか子にあまりモノを買い与えることがなかった。
内緒で買ったもらったおもちゃを見つけられてよく怒られた。

しかし、本だけは別であった。
本を読んでいると褒められた。
だから幼い僕はよく祖母に本をどうどうと買ってもらっていた。
だいたいが祖母の買い物を待っている間に、欲しい本の目星をつけておいて、迎えに来た時に買ってとせがむのだ。
きっと僕に、本の蒐集癖があるのはこのためだと思う。
買ってもらった本を祖母の家に持ち帰り、一ページ目を括る時の興奮。
厳しかった両親とは違い、なんでも無条件にに受け入れてくれる祖母の慈愛を幼いながら感じ取っていたのだろう。
幼年期の、幸せに包まれている記憶。

その祖母も、今では僕のことすらわからない。

あの頃買ってもらった本は一冊も残っていない。
小公女やあしながおじさんが載った世界少年少女文学全集や怪人20面相シリーズなど
当時買ってもらい、眺めたり読んだりした本は色褪せず記憶にしっかり残っている。

先日、空き家となってしまった祖母の家を整理していると本棚の片隅に
風の又三郎ポプラ社発行を見つけた。
僕が小学校4年生のとき、祖母の誕生日にプレゼントしたものだ。

当時の僕はプレゼントするのも本しか思い浮かばなかったのだろう。

涙がこぼれた。
祖母の記憶からは多くのものが永遠に失われてしまった。
僕が祖母から受けた愛情の記憶だけが、鮮明に色濃く残っている。

日記ブログとしてただ書くことを楽しむため。アフィリエイトは気にしない

何のために書くか

目的を見失う

他でも独自ドメインでブログ運営をしている。

そのブログとは切り離して書いていきたい。

グーグルアドセンスとかアフィリエイトの事、PV数を考慮してブログを書くことはもちろん大切で全く否定するつもりはない。

しかし僕の場合、それを気にするあまり、息苦しく、書きたいこともかけない状況が生まれ、何のために書いているのか、小銭を稼ぐために大事なことを忘れてはいないかと、疑問を感じ始めたのである。

一度、何も気にせずに、つまらないことでもなんでも、本来の書くという純粋な行為を

存分に楽しもうじゃないかと思い至った次第である。

僕がなんかを書く理由

そもそもブログを書く人は、どうしてこれほどの労力を使って、パチパチとキーを叩きうんうん唸り、自ら面倒を買ってでるのか?

日記、えっせい、ツイッター、なんでも代わりになるものたくさんある のに。

自己顕示か存在証明か、それとも誰かに自慢するためか。いやぁむしろそのほうがモテないよ。

書きたいから書くのだ。山があるから登るのだ。穴があるからもぐるのだ。

繊細な時には繊細に、世の中バカやろと思うときはバカやろと書き、

自己陶酔したいときは恥ずかしくなるようなことを、ニュースに怒りをおぼる時は批評家のように、縛られずカタにハマらずに書くのだ。

だけど布団でこそこそ書いてそのまま、誰にもうんともすんとも言ってもらえず消えてしまうのはなんだか寂しくて。

公開する意味

公開とは可能性なのだ。いつか誰かが自身の書いたものを目にするかもしれないという可能性なのだ。

それこそがただの日記と一線を画しブログをブログたらしめているものなのだ。

 

実を言うと

正直に言うともう一つのブログは収益なんかないに等しく、PV数も1日に数件の時もある。

もっと本気でGoogleさんと仲良くすれば良いのかもしれないのだが、なかなかうまくいかない。

ナニが一番面白くないかと言うと、自分でもあきあきしてるカテゴリーを義務感で続けたり、SEOを意識した文章作り、文字数を無理やり引き伸ばしたりと言うこと。

どうせたいしてGoogleさんに好かれてるわけでないのなら、そこまで迎合しなくても良いやんけ。

と、まあこんな風に思うのであります。

 

まぁ少し好きに書いていこうじゃありませんか。

それではよろしくお願いします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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